2010年02月07日
シャネル&ストラヴィンスキー
映画「シャネルとストラヴィンスキー」
" Coco & Igor "
磨きぬかれたファッション、80種類以上の香りを複雑に調合して生まれる香水、傑出した音楽、触れ合う肌と肌、、、それらは全て一瞬に、おびただしい情報を伝える。
それに引き換え、文字というものは、実にもどかしく、時間ばかりがかかり、しかも、正確に意図を伝えることにも実は向いていない。
だが、にもかかわらず、書かないではいられない。
なぜなら、ほかに自分の心の叫びを表す手段を、私は知らないから。

映画「シャネル&ストラヴィンスキー」
映画が始まるや、私は、たちまちのうちに飲み込まれてしまった。
魂を揺さぶる圧倒的な何かに。
この映画は、1913年、パリのシャンゼリゼ劇場におけるストラヴィンスキー「春の祭典」初演シーンで始まる。
音楽史に燦然と輝くディアギレフのバレエ・リュッス(ロシアバレエ団)が、これまた伝説的なバレエダンサー・ニジンスキーの振り付けで演じた「春の祭典」。
「春の祭典」が始まって程なく、音楽とダンス(もはやバレエの概念を打ち破っているからそう呼ぶ)の、あまりの斬新さに、聴衆は度肝を抜かれ、客席では、舞台そっちのけで、上を下への大騒ぎが始まった。
無理も無い。ストラヴィンスキーの音楽は、それまでの調整が取れたメロディアスな音楽とは違いすぎた。
メロディよりもリズム重視のその音楽は、現代のポップサウンドにもつながる革新的なものだった。
頭脳に響くというよりは、肉体の感覚に直接訴えかえるその音楽は、その夜のシャンゼリゼ劇場を埋めたエレガントな紳士淑女には、むしろ不快なものとして感じられたに違いない。
だが、革新的なのは音楽だけではない。ダンスも劣らず先鋭的だった。
ひたすら優美さを追求したクラッシック・バレエとは、まったく異なる「春の祭典」の振り付け。マイケル・ジャクソンにも通じる現代舞踏は、ここから始まったのだ。
一度舞い上がるとしばらく降りてこなかった、つまり空中浮遊していたとの説まである天才バレエダンサー、ニジンスキーだからこそできたそのダンスは、今見ても度肝を抜かれる。
「春の祭典」のストーリーは、どこか遠い北国の未開の民が春を呼び起こすために、大地に処女を生贄にささげるというもの。
土俗的な衣装に身を包んだダンサー達が、弦楽器が刻むギザギザのパッセージに合わせて、飛び跳ねる。
かと思うと、生贄の少女達が、まるで憑かれたかのように、輪になって踊る。
フリージャズのサクソフォンのように、ファゴットが熱狂的なリズムを吹き鳴らすと、少女達の輪舞は、激しい痙攣(けいれん)に変わる。そのまま、舞台の上で直立したまま痙攣し続ける少女達。
客席のどよめきは一層大きくなり、激昂した観客が立ち上がって叫ぶ、「これが、バレエか!」「医者を呼べ!医者を」
ブーイングは会場全体を包み、オーケストラの音をかき消す程に大きくなる。舞台にたたきつけられたストラヴィンスキーの音楽によって、眠っていた獣性を掻き立てられたかのように、その場にいたすべての人々が興奮状態に陥る。「こんなものは音楽ではない!」「騒音だ!」といったヤジと怒号。かと思うと、新しい芸術の誕生を評価する人たちもいて、客席ではつかみ合いの喧嘩までおこったという。
歴史に残るスキャンダルになった「春の祭典」の初演。
そんな「春の祭典」の初演シーンが、目の前で繰り広げられる。
断片的だが、強烈な印象の「春の祭典」は、スクリーンを通してなお、私の感情全体を揺さぶったらしい。
どういうわけか、涙がはらはらと出てきた。
そして、思ったのではない。体で感じたのだ。
芸術というものは、世界を吹き飛ばす程の力を持っているということを。

のっけから強烈なこの映画、伏線がこんなにもインパクトが強いと、本筋がかすんでしまいかねないが、ヤン・クーネン監督は、手馴れた感じで、シャネル、ストラヴィンスキーとその妻、そして、シャネルが生み出した世に名高い香水「N°5」、それぞれの物語をうまく纏(まとめ)め上げていた。
ディアギレフなど周辺人物も、短時間ながら存在感のある役柄で、この映画の味わいに豊かさを付け加えている。
簡単な道具立てや、さらりと描かれたシチュエーションで、それぞれの個性を一瞬に描き出すところなど心憎いばかり。
キャスティングも秀逸。
ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセン。渋い演技が光るが、さび付いたような声がまた、なんとも耳に心地よい。
シャネルを演じたアナ・ムグラリス。すらりと均整のとれたしなやかな肢体から、ゆるぎない美と意思の力を全身から発散している。とくに、映画の終盤、シャネルの援助で「春の祭典」が再演されるシーン。光沢のある黒の衣装をまとって颯爽と歩くその姿は、どうだ。
ゴージャスでタイトなボディと、それとは対照的な軽やかさを併せ持つドレスは、株式会社シャネルの協力あってのものだろうが、アナは見事に着こなしている。
思わずため息をもらす人々の讃美と注目を集めながら、一人、劇場のロビーを、人々の間を吹き抜ける風のようにして進むアナ=シャネルの姿。ファッションというのは単なる布きれではないということがよく分かるシーンではないか。
そこにはシャネルの本質が、みごとに表現されている。
息の詰まるコルセットで体を締め付け、形だけの偽りの美しさで取り澄ましていた人々にとって、シャネルが作るドレスは、羽が生えたと思えるほど、かろやかですがすがしいものだったはすだ。
だが、一方で、仰々しく堅苦しい衣装によって、身分や階級、そしてジェンダーといった社会秩序が保たれると考える人々にとってはどうだろう。
女性を窮屈な衣装で、文字通り「締め付け」、彼女達をあえて非活動的なもの、従って従属的なもの、つまりは劣ったものとすることをクレド(信条)とするような古い世界に社会に慣れ親しんでいた人々にとって、シャネルの作り出すドレス、そしてシャネルのような自立した女性という存在は、安定した世界を揺るがしかねない危険なものだったに違いない。
つまりは、シャネルの生んだファッションもまた、ストラヴィンスキーの音楽やニジンスキーの舞踏と同じく、世界を揺るがすほどのものだったということ。
そんな挑発的で危うい美を生み出す二人、シャネルとストラヴィンスキー。
二人が出会い、引き寄せあうのは、ある意味、自然ななりゆきだった。
そんな二人からは、所詮、所帯じみた普通人でしかないストラヴィンスキーの妻子ははじき出されてしまうのが当然。
だが、そんな愛の行方が、ハッピーエンドにはなりえないことは、これもまた当然。
けれど、そうしないではいられないのだ。
普通の人たちには決して理解できない。
ある種の人々、そして、どうしようもなく不幸な人々、そういう人達だけが、それを感じ、そして、理解するだろう。
by らいおん
" Coco & Igor "
磨きぬかれたファッション、80種類以上の香りを複雑に調合して生まれる香水、傑出した音楽、触れ合う肌と肌、、、それらは全て一瞬に、おびただしい情報を伝える。
それに引き換え、文字というものは、実にもどかしく、時間ばかりがかかり、しかも、正確に意図を伝えることにも実は向いていない。
だが、にもかかわらず、書かないではいられない。
なぜなら、ほかに自分の心の叫びを表す手段を、私は知らないから。

映画「シャネル&ストラヴィンスキー」
映画が始まるや、私は、たちまちのうちに飲み込まれてしまった。
魂を揺さぶる圧倒的な何かに。
この映画は、1913年、パリのシャンゼリゼ劇場におけるストラヴィンスキー「春の祭典」初演シーンで始まる。
音楽史に燦然と輝くディアギレフのバレエ・リュッス(ロシアバレエ団)が、これまた伝説的なバレエダンサー・ニジンスキーの振り付けで演じた「春の祭典」。
「春の祭典」が始まって程なく、音楽とダンス(もはやバレエの概念を打ち破っているからそう呼ぶ)の、あまりの斬新さに、聴衆は度肝を抜かれ、客席では、舞台そっちのけで、上を下への大騒ぎが始まった。
無理も無い。ストラヴィンスキーの音楽は、それまでの調整が取れたメロディアスな音楽とは違いすぎた。
メロディよりもリズム重視のその音楽は、現代のポップサウンドにもつながる革新的なものだった。
頭脳に響くというよりは、肉体の感覚に直接訴えかえるその音楽は、その夜のシャンゼリゼ劇場を埋めたエレガントな紳士淑女には、むしろ不快なものとして感じられたに違いない。
だが、革新的なのは音楽だけではない。ダンスも劣らず先鋭的だった。
ひたすら優美さを追求したクラッシック・バレエとは、まったく異なる「春の祭典」の振り付け。マイケル・ジャクソンにも通じる現代舞踏は、ここから始まったのだ。
一度舞い上がるとしばらく降りてこなかった、つまり空中浮遊していたとの説まである天才バレエダンサー、ニジンスキーだからこそできたそのダンスは、今見ても度肝を抜かれる。
「春の祭典」のストーリーは、どこか遠い北国の未開の民が春を呼び起こすために、大地に処女を生贄にささげるというもの。
土俗的な衣装に身を包んだダンサー達が、弦楽器が刻むギザギザのパッセージに合わせて、飛び跳ねる。
かと思うと、生贄の少女達が、まるで憑かれたかのように、輪になって踊る。
フリージャズのサクソフォンのように、ファゴットが熱狂的なリズムを吹き鳴らすと、少女達の輪舞は、激しい痙攣(けいれん)に変わる。そのまま、舞台の上で直立したまま痙攣し続ける少女達。
客席のどよめきは一層大きくなり、激昂した観客が立ち上がって叫ぶ、「これが、バレエか!」「医者を呼べ!医者を」
ブーイングは会場全体を包み、オーケストラの音をかき消す程に大きくなる。舞台にたたきつけられたストラヴィンスキーの音楽によって、眠っていた獣性を掻き立てられたかのように、その場にいたすべての人々が興奮状態に陥る。「こんなものは音楽ではない!」「騒音だ!」といったヤジと怒号。かと思うと、新しい芸術の誕生を評価する人たちもいて、客席ではつかみ合いの喧嘩までおこったという。
歴史に残るスキャンダルになった「春の祭典」の初演。
そんな「春の祭典」の初演シーンが、目の前で繰り広げられる。
断片的だが、強烈な印象の「春の祭典」は、スクリーンを通してなお、私の感情全体を揺さぶったらしい。
どういうわけか、涙がはらはらと出てきた。
そして、思ったのではない。体で感じたのだ。
芸術というものは、世界を吹き飛ばす程の力を持っているということを。
のっけから強烈なこの映画、伏線がこんなにもインパクトが強いと、本筋がかすんでしまいかねないが、ヤン・クーネン監督は、手馴れた感じで、シャネル、ストラヴィンスキーとその妻、そして、シャネルが生み出した世に名高い香水「N°5」、それぞれの物語をうまく纏(まとめ)め上げていた。
ディアギレフなど周辺人物も、短時間ながら存在感のある役柄で、この映画の味わいに豊かさを付け加えている。
簡単な道具立てや、さらりと描かれたシチュエーションで、それぞれの個性を一瞬に描き出すところなど心憎いばかり。
キャスティングも秀逸。
ストラヴィンスキー役のマッツ・ミケルセン。渋い演技が光るが、さび付いたような声がまた、なんとも耳に心地よい。
シャネルを演じたアナ・ムグラリス。すらりと均整のとれたしなやかな肢体から、ゆるぎない美と意思の力を全身から発散している。とくに、映画の終盤、シャネルの援助で「春の祭典」が再演されるシーン。光沢のある黒の衣装をまとって颯爽と歩くその姿は、どうだ。
ゴージャスでタイトなボディと、それとは対照的な軽やかさを併せ持つドレスは、株式会社シャネルの協力あってのものだろうが、アナは見事に着こなしている。
思わずため息をもらす人々の讃美と注目を集めながら、一人、劇場のロビーを、人々の間を吹き抜ける風のようにして進むアナ=シャネルの姿。ファッションというのは単なる布きれではないということがよく分かるシーンではないか。
そこにはシャネルの本質が、みごとに表現されている。
息の詰まるコルセットで体を締め付け、形だけの偽りの美しさで取り澄ましていた人々にとって、シャネルが作るドレスは、羽が生えたと思えるほど、かろやかですがすがしいものだったはすだ。
だが、一方で、仰々しく堅苦しい衣装によって、身分や階級、そしてジェンダーといった社会秩序が保たれると考える人々にとってはどうだろう。
女性を窮屈な衣装で、文字通り「締め付け」、彼女達をあえて非活動的なもの、従って従属的なもの、つまりは劣ったものとすることをクレド(信条)とするような古い世界に社会に慣れ親しんでいた人々にとって、シャネルの作り出すドレス、そしてシャネルのような自立した女性という存在は、安定した世界を揺るがしかねない危険なものだったに違いない。
つまりは、シャネルの生んだファッションもまた、ストラヴィンスキーの音楽やニジンスキーの舞踏と同じく、世界を揺るがすほどのものだったということ。
そんな挑発的で危うい美を生み出す二人、シャネルとストラヴィンスキー。
二人が出会い、引き寄せあうのは、ある意味、自然ななりゆきだった。
そんな二人からは、所詮、所帯じみた普通人でしかないストラヴィンスキーの妻子ははじき出されてしまうのが当然。
だが、そんな愛の行方が、ハッピーエンドにはなりえないことは、これもまた当然。
けれど、そうしないではいられないのだ。
普通の人たちには決して理解できない。
ある種の人々、そして、どうしようもなく不幸な人々、そういう人達だけが、それを感じ、そして、理解するだろう。
by らいおん


